5月14日の「美の巨人たち」は歌川国芳の幕末エンターテインメント絵画の傑作を紹介します
今日の一枚は江戸の浮世絵師、歌川国芳の大判錦絵『讃岐院眷属をして為朝をすくふ図』が登場!
◆美の巨人:歌川国芳
名前:歌川 国芳
うたがわ くによし
幼名:井草芳三郎
生誕:1797年1月1日(寛政9年11月15日)
死没:1861年4月14日(文久元年3月5日)
満64歳没
出身:江戸日本橋本銀町一丁目(現在の東京都中央区日本橋本石町四丁目)
江戸時代末期の浮世絵師
◆ナレーター:小林薫・蒼井優
◆今日の一枚
▲讃岐院眷属(さぬきのいんけんぞく)をして為朝(ためとも)をすくふ図
国芳が描く大迫力の武者絵は歓喜とともに迎えられました。
源為朝の英雄伝説画を彩るのは実在しない二つの生き物、鰐鮫(わにざめ)と烏天狗(からすてんぐ)です。
ひとたび荒れ狂う大海原に投げ出されれば、ひとたまりもない。その海を絵にあらわし、人々の目を驚かせ、畏怖の念まで抱かせることが、国芳のテーマでした。
◆時代背景
文政初年、錦絵『平知盛亡霊図』によって人気が出始めましたが、その後しばらくは不遇でした。
師・歌川豊国 没後の文政10年(1827年)頃に発表した大判揃物『通俗水滸伝豪傑百八人』という水滸伝のシリーズが評判となりました。
“武者絵の国芳”と称され、人気絵師の仲間入りを果たしたそうです。
国芳45歳の時、運命は一変する。老中・水野忠邦による天保の改革。
質素倹約、風紀粛清の号令の元、浮世絵も役者絵や美人画が禁止になるなど大打撃を受ける。「隅田川之朝霧」
江戸っ子国芳は、浮世絵で精一杯の皮肉を1843年(天保14年)『源頼光公館土蜘作妖怪図』でぶつけた。表面上は、平安時代の武将源頼光による土蜘蛛退治を描き、本質は妖術に苦しめられているのは“平安時代中期の武将・源頼光”と見せかけています。
国家危急の時に惰眠をむさぼっているとの批判が込められている。『源頼光と四天王』
源頼光の命を狙う妖賊。袴垂保輔と妖術合戦を行ない、大水を起こしたり、大蛇を召喚したりする。『浮世絵・鬼童丸(きどうまる)』
幕府はそんな国芳を要注意人物として監視し、国芳は何度も奉行所に呼び出され、尋問を受け、時には罰金や始末書を書かされたという。
それでも国芳の筆は止まらず、幕府を風刺した。江戸の人々は国芳に喝采を浴びせた。その人気は最高潮に達しました。
国芳の描いた1848年(嘉永元年)『宮本武蔵と巨鯨』は、浮世絵3枚分に描かれたまるで大スペクタル絵画として言い伝えられています。
天保の改革によって庶民が娯楽に飢えていた幕末。国芳が描く大迫力の武者絵は歓喜とともに迎えられました。『讃岐院眷属をして為朝をすくふ図』
国芳が「忠臣蔵 夜討ちの図」赤穂義士を描いた翌年の嘉永6年(1853年)、浦賀にはペリーの黒船が来航しました。
1847年-52(弘化4-嘉永5)頃、「初雪の戯遊」人物描写に硬直味が見られ、描線に鈍さが出て、動感に乏しい作品が目立ち始めます。
「其のまま地口・猫飼好五十三疋」(そのままじぐち・みょうかいこうごじゅうさんびき)
東海道五十三次に登場する宿場を、猫に関したダジャレに置き換えた大判三枚からなる戯画です。
◆兄弟弟子
名前:歌川国貞
うたがわ くにさだ
本名:角田 庄五郎
生誕:1786年6月15日(天明6年5月19日)
死没:1865年1月12日(元治元年12月15日)
江戸時代の浮世絵師
三代目歌川豊国
幕末の人気浮世絵師、国芳と国貞の兄弟弟子による名品の数々を同一テーマで比較展示することによって、彼らが消費者に対し、いかにして創意工夫を凝らしてきたかを知ることができます。
浮世絵師たちの工夫・趣向のひとつに多様な色彩表現があります。『神楽月顔見せの光景』
浮世絵が最盛期を迎えた時代、色を摺り重ねる技術の発展と共に、精巧で豪華な多色刷りの錦絵が誕生しました。「踊形容楽屋之図 踊形容新開入之図」
浮世絵は江戸の人々が求めたエンターテイメントを凝縮したメディアであり、現代の雑誌やポスター、ブロマイドと言えます。
国芳、国貞の描く世界で活躍するヒーローや憧れの歌舞伎役者たちが描かれています。
関連情報:ボストン美術館所蔵★初の大規模国芳・国貞展「俺たちの国芳 わたしの国貞」
※当サイトは、番組の公式サイトではありません。実際の番組内容と異なる場合がございます。
One comment to this article
Pingback:
ボストン美術館所蔵★初の大規模国芳・国貞展「俺たちの国芳 わたしの国貞」 |